ガラス窓のある風景


2

 十一月は、冬至よりもっと夜が長いような気がする。季節の変わり目、ということもある
のだろうが、日がとっぷりと暮れた、薄ら寒く深い闇を歩きだすのには、非常な勇気が要る。
コート、手袋、襟まき代わりのスカーフ、不必要なほどの重装備でアパートと図書館を往復
する訳は、この辺りにある。こうしているうちに、やがて本物の冬が訪れるのだ。
 水曜日は、図書館の残業がない日なので、花の教室に行く。クリスマスやお正月が近付く
この季節、教室はいつにもまして華やかな活気に満ちている。私はこの雰囲気に呑みこまれ
ることで日常を忘れる。私がどんなに昂揚していようと、落胆していようと、ここはいつだって
安心の約束されている場所なのだ。
 「白木くんの連絡先?」
 大学の同級生でアレンジ仲間の里美はすっとんきょうな声を上げて、慌てて口を押さえる。
編みかけのべにづるのリースが、里美の左手でぱちんとはじける。
 「突然どうしたの。なんかあったの」
 昨日の話をしたものかどうか考えたが、ラフィアを結びながら私はゆっくり首を振って答えた。
 「ううん。ただ、――どうしてるのかなと、思って」
 大ウソつき。私はどうしてるかと思ったくらいで連絡先を調べたりなんかしない。
 「知らないよー。卒業してすぐの頃に、ゼミのみんなで会ったけど、それっきり」
 里美は経済学部で祐一と一緒だった。時折里美と、祐一のピアノを聴きにいったりもした。
しかし確かに、同じゼミというだけで、どちらかと言えば、祐一よりも私といる時間の方が
長かったのだ。けどさ、と里美は続ける。べにづるがいうことをきかないので、つるをため
るのに必死だ。
 「いいんじゃない?知らない方が。由希子だって、もうややこしいのはごめんでしょ」
 そんなことは分かっている。けれど、「ややこしいこと」はもう始まってしまっているのだ。
それも、私の意志とは全く関係のないところで。
 「そうだね」
 リースを編み終わったので、花器の上にのせ、花を入れることに専念する。頭の中を空っ
ぽにして。そう、頭も心も空っぽにして。このまま、「ややこしいこと」なんてどこかに飛
んでいけばいいのに。
 「ちょっと由希子。ここ押さえててくれる」
 里美がリースと格闘している。こんな細かいことは大の苦手のはずなのに、この子ももう
じき主婦になるのかと思うと、笑いといとおしさがこみあげてくる。
 「こらゆき。笑うんじゃない」
 「はいはい。ラフィア結んであげるよ」
 私も里美みたいなら良かったのに、と思う。ブラインドを下ろし忘れた大きな黒い窓に、
蛍光灯が室内の水分を含んで白っぽく滲んでいる。ガラス窓の向こうでは、しんしんと寂し
さが降り積もっているように見えた。

 祐一から二度目の電話があったのは、十二月最初の日曜日だった。
 アパートのドアの鍵を差しこんだ時、部屋で電話が鳴っているのに気付いた。大急ぎで鍵
を開け、電気もつけずに駆けこんで、受話器をとる。
 「もしもし。由希子?」
 この声。祐一の声は、圧倒的な強さをもって、私の心に響く。部屋の暗さも空気の冷たさ
も、息をひそめてしまうくらいに。はい、と答えるしかないのだ。どんなときでも。
 「もう、風邪大丈夫か?熱は下がったのかな」
 確かに、先週はひどい風邪をひいていて、微熱をおして仕事に出ていたのだった。
 「うん。今日も図書館、ちゃんと行ってきたし」
 「えらいな。日曜なのになあ」
 子どもをほめるような口ぶりに、思わず苦笑する。そういう祐一だって、おそらく今アル
バイトを終えたばかりなのだ。きっと。
 楽譜の件にしろこういう他愛もない話題にしろ、学生の祐一ときちんと話が符合している
ことに、今では感心する余裕があった。この三年八ヶ月の間、ずっと心の隅に押しやってい
た、あの頃の祐一への思いはまだ息づいている。しかしそれが、ただあの日々へのノスタル
ジィであることも、今の私はちゃんと知っていた。難しく考えるのはよそう。商社マンだろ
うが大学生だろうが、祐一は祐一だ。それさえ間違いがなければ、細かいことは追及しない
し、説明もしない、そう決めていた。
 「祐一のピアノが聴きたい」
 口をついて出た言葉に、自分が未だ祐一を必要としている事実を思い知る。そうだ、私は
もうずっと長いこと、あの音を聴きたかったのだ。たとえ現実の外側ででもいいから、あの
音の海に、身を沈めたい。
 「いつでも来いよ。待ってるから」
 それから近代美術館にオルセーを観に行こう、と彼は笑った。
 私たちは、いつものところで、の約束をした。

 次の日、私たちは「午後の授業を抜け出して」、大学から電車で三十分ほどのところにあ
る近代美術館に行った。ここはもう県境を越えているので、ちょっとした遠足気分だ。
 十二月の静かな日差しが肩に暖かい。つるつるした冬の風も、青い空とお日さまの前では
少しだけ春のふりをする。銀杏の落ち葉は惜し気もなく、街路樹の足元の僅かな土に身を投
げている。駅前の大きな車道はまっすぐにゆるゆると伸び、そのまま近代美術館や、五重塔
のある古いお寺へと続いている。この辺り一帯が、一つの大きな公園になっているのだ。祐
一も私も、コートのポケットに手をつっこみ、歩道脇の芝生地を抜けて、松の木の下をくぐ
っていく。
 平日とはいえ、オルセー美術館展は盛況だった。こういう時、私は平日の連休に感じ入る。
 普通の休日を過ごす人たちから隔離された気分。それは優越感でもあり、同時に疎外感で
もある、複雑な気分だ。たとえば今頃、里美はきっと一生懸命電卓をたたいている。伝票を
きっている。彼女にはそれが誇らしいことでもあり、また同時に悲しいことでもあるのに違
いない。
 祐一が学生券を二枚、ひらひらさせながら戻ってきた。改札係が二枚まとめて半券をちぎ
る。私はそっと祐一のコートの袖をひっぱった。
 「観終わったら、外で松ぼっくりを拾おう」
 そう言った私に、、祐一は真面目にうなずいた。
 「いっぱい拾おうな」

 館内の暖房と人いきれから解放された私たちは、頬を上気させたまま、てくてくと芝生地
の方へ向かって歩き出した。フリスビーをしている子どもたちの歓声が響く。午後三時を過
ぎた風は冷たく、私たちの体温を会話ごとさらっていく。お互いが気に入った絵についてひ
としきり喋り終える頃には、すっかり肌が外気になじんでいた。
 「由希子、松ぼっくり」
 祐一は、足元にあった大きな松ぼっくりを、ぽん、と蹴った。
 「あ、ほんと」
 びっくりするくらいたくさん落ちている。私たちは、二本ずつ担当の松の木を決め、めい
めい自分が好きな感じのする松ぼっくりを拾うことにした。めぼしいのを一つずつ手にとっ
ては、慎重に捨てたり、拾ったりする。老人が足を止め、目を細めて通り過ぎていく。小一
時間くらい、祐一と私は黙々と松ぼっくりを拾っていた。
 「ゆき、俺は終了だ」
 見ると祐一のピーコートのポケットは、二つともぱんぱんに膨れ上がっていて、どうやって
バイトに行くんだ、と面白がっている。
 「私も終わりにしよう」
 私のダッフルのポケットも、もうちょっとでこぼれそうだ。
 「じゃあ、ちょっと出してみようか」
 大きいのに中くらいのに小さいの、形の整ったのや面白いの、木のベンチの上にいろいろ
並んだ。祐一は十六個、私は十八個。ダッフルの方がポケットが大きいのだ。不公平な玉
入れだなあ、と祐一が笑った。でも、形は絶対俺のほうがいいぞ。
 ふと目を上げると、遠い木々が夕靄にかすんでいる。さっき観た絵のようだ、と私は思っ
た。題名も画家の名前も忘れてしまったけれど。それは子どものころ、寂しくて仕方がなか
った夕暮れ時の情景そのものだった。
 「吸いこまれそうだな」
 本当に、そんな気がした。永遠に閉じこめられてしまうような。祐一との恋も、こんなふ
うに永遠の時間の中にある。胸がさりさりとするような懐かしさと痛みをもって。
 うん、とうなずいて、私は松ぼっくりを祐一のポケットに戻しはじめた。ひとつ、ふたつ、みっ
つ。数えるずつ、悲しくなった。よっつ、いつつ、むっつ。
 祐一が七つ目の松ぼっくりごと私の手をつかんで、ポケットにほうりこんだ。そうして、もう
片方の手で私を抱きしめた。この手の重み。
 祐一の肩の向こうで、上ったばかりの大きな月が、私を見つめていた。

 その晩、私は「ラ・ストラーダ」のカウンターの片隅にいた。
 カウンターの反対側に奥まったスペースがあり、そこで祐一がグランドピアノを弾いている。
今は「オーバー・ザ・レインボウ」だ。
 「ゆきちゃん、久しぶり」
 オーナー兼マスターである祐一の伯父さんが、オレンジジュースのグラスを出してくれる。
この人は祐一に似ている、と会う度に思う。顔立ちもどことなく似ているけれど、何より持
っている雰囲気が同じ種類の人間だと感じさせる。だから話をしていても、ほっとする。グ
ラスの氷がからんと音を立てた。
 「図書館のアルバイト始めたんだってね」
 「そうなんです。先輩の紹介で」
 「祐一が喜びながら悲しんでた。『由希子の夢が半分叶った。けれど店には来られなくな
る』って」
 マスターがお皿を拭きながらちょっと笑った。
 「だけど祐ちゃんのピアノ、ずっと聴かないなんて考えられないですから」
 「それは祐一も演奏家冥利に尽きるねえ。この場合は男冥利かなあ。確かに、あいつの
 ピアノは正直でいい音だ。ゆきちゃんの影響も少なからず、だよ。祐一のピアノには、ゆき
 ちゃんの人柄も、ちゃんと生きてる」
 そう言ってもらえるのは、照れ臭いけれどとても嬉しいことだった。曲が「ラヴレター」
に変わった。ピアノの方を振り返ると、店内が見渡せる。今日は月曜日のせいか、いつもよ
りお客さんの数が少ない。この店はピアノがうるさくならない程度の広さがあるから、その
お客さんたちのざわめきと、祐一の弾くピアノとが、ひとつの音楽のように聞こえる。白熱
灯のあたたかなオレンジ色も、たちこめる煙草の煙も、みんなそこに溶け出していく。それ
は、さざ波のような安らかさだ。
 「ゆきちゃん、あと一曲で休憩だから」
 背中のマスターの声にこくんとうなずいて、目をつぶる。「十番のワルツ」だった。胸が
しわしわとなる。あの音の海だ。長いこと聞こえないふりをしていた、あの音だ。私はピア
ノを弾く祐一を見た。彼はとても穏やかに見えた。こうして自分の心と指で自分の音を紡ぎ
だすのが、楽しくて仕方がないというふうに。
 私は突然分からなくなった。彼のピアノの中にいるのが、今の私なのか、あの頃の私なの
か。二つの自分が、全く別の人間のように思えてくる。ただ時間が流れただけなのに。この
音を忘れようとしていた間に、何が違ってしまったのだろう。私はまた目をつぶった。さっ
きの夕景が、まぶたの裏に広がる。夕靄、松ぼっくり。大きな月、祐一の手の重み。
 ピアノが途切れても、しばらく動けなかった。ジュリー・ロンドンの物憂げな声が低く流れ出
し、祐一が隣に腰掛けて、由希子、と呼ぶまで。
 「ゆきが来たときくらいしか、あれは弾かないぞ」
 ここで祐一が弾くのは、ジャズやポピュラーがほとんどだ。それは私もよく知っていた。
 「ありがとね」
 オレンジジュースが少し薄くなっている。グラスの汗を指先で拭いながら、今日は一日あ
りがとう、と重ねて言った。そろそろ帰る。
 「ゆきちゃん、これこれ」
 マスターが松ぼっくりを紙袋に入れてくれていた。私はお礼を言って、それを受け取り、
コートを着る。祐一はじっとそれを見ている。
 「寒いし、病み上がりだしな。体に気をつけて、達者で暮らせよ」
 そんなすごい挨拶、と私は笑った。笑いながら、もう会えないのかもしれない、という思い
がよぎる。
 「また電話する。ここにも来いよ」
 祐一はキャシャーの横でそう言った。私は、「ラ・ストラーダ」のマッチのかごに目を落とし
たまま、小さくうなずいた。

 返却された本を、大きなかごから順々に書架の戻していく。番号通りに本をきちんと収め
ていくのは、気持ちのいい作業だ。ここは割合小さな図書館なので、蔵書数も決して多い方
ではないが、そういった作業の最中に、時々面白い本があるのを見つけたりもする。並んで
いる本の背表紙をながめているだけでわくわくする、私のような人間にとってこの仕事は天
職だと思う。
 「倉田さん、悪いけどこれ、ここの分。お願いしていいかな」
 斎藤さんがかごをもう一つ持ってきた。彼はまだ三階の書庫の整理が終わらないらしい。
 「あ、かまわないですよ」
 私はこういうのは逆に嬉しいくらいだ。仕事がどんどんはかどって、調子が出てくる。斎
藤さんには、それが分かるようだ。実にタイミング良く仕事を割り振ってくれる。
 「倉田さん、あの松ぼっくりのクリスマス・ツリー、一階で大人気だよ」
 「そうですか。良かった」
 あの日、祐一と二人で拾った松ぼっくりは、ほとんどミニチュアのクリスマス・ツリーに
してしまった。グリーンのラッカーを吹きかけ、「ラ・ストラーダ」で分けてもらったワインの
コルク栓にボンドでくっつける。後はスパンコールやパールのビーズや、きらきらするも
のをボンドで留めていくのだ。祐一と会った翌日、私はひがな一日そんなことをしていた。
そうして、あの日の余韻をひとつひとつ確かめるように過ごした。
 「作り方を教えて欲しいって、子どもたちやお母さん方が聞くんだ。倉田さん、良かったら
今度、配れるようなプリントでも書いてきてくれないかな」
 図書館の一階は、すべて児童書を扱っている。小学校に隣接しているという立地条件の
せいもあり、一階ではいつも子どもたちが賑やかに本を選んでいる。学校がひけるまでは、
若い母親と幼児たち、学校がひけてからは小学生たち、と時間的なテリトリーもはっきりし
ていて、一日中それを見ているこちらとしては退屈しない。
 「それなら、明日にでも書いてきますね」
 「そうしてくれるとありがたい。ついでに、あつかましいお願いなんだけど」
 僕にあれ一つ、もらえない?と声を低くする。家内の病室が殺風景なもんだから。
 斎藤さんには、赤ちゃんが生まれたばかりだ。ここのところ病院へ行くために、残業の後
も急いで帰っていく。
 「どうぞどうぞ。まだクリスマス・リースも作るつもりだし、図書館の分は事欠かないか
 ら」
 「ありがとう。じゃ、三階の続きでも行ってきましょうかね」
 斎藤さんは軍手をはめながら階段の方へ歩いていった。がんばれ、お父さん。私は心の
中で呟きながら、また書架の整理の没頭していった。

 「ゆきちゃん、楽しそうだね」
 森川さんが、メープルクッキーを菓子皿にあける。三時の休憩を交代でとっているのだ。
私はティーバッグの紅茶の包みをぱりぱりと破りながら、ええ、まあ、と曖昧な返事をした。
確かもう牛乳はなかった、と思いながら。
 「白木祐一と、会ったんでしょ」
 森川さんはクッキーをひとつ、口にほうりこむ。この人は何でもお見通しだ。二人の専用
カップにそれぞれ湯を注ぎながら私は、一昨日のことをどこから話したものか、悩んだ。
 「ええと。電話がかかってきたんです、日曜日に」
 「日曜日って、この前の?」
 そうです、と答えながら、ティーバッグをカップから出す。森川さんは、スティックシュガー
を半分、だ。私は牛乳を入れるが砂糖は入れない。したがって今日はストレートで飲む覚
悟だ。コーヒーフレッシュだけは、入れたくない。
 「その白木くんは、やっぱり学生だったの?」
 「はい。その電話で、次の日に会う約束をして」
 私はあの一日のことを一部始終話した。けれど、話せば話すほど、その時々のかすかな
気持ちや感覚の動きまでは伝えられない気がした。最後には言葉がなくなって、上手く
言えないんですけど、とお茶を濁した。
 森川さんは紅茶を飲みながら、黙って私の話を聞いていた。そして、ぽつんと言った。
 「とても幸福で、そして悲しい話ね」
 祐一と私は、すでに過去完了している。それは紛れもない事実だ。それにもかかわらず、
こうして学生の祐一と、何事もなかったかのように会い続けるというのは、確かにものすご
く悲しいことのように思えた。
 「ゆきちゃんは、どうしたいの」
 森川さんはいつも、どうするべきか、とは言わない。例えばこの場合、商社に勤めている
はずの祐一と連絡をとるべきだとか、学生の祐一に問いただすべきだとか、そんなことは
決して言わない。
 「今、彼と現実に前に進みたいっていうんじゃないんです」
 そうでしょうね、と森川さんはうなずいた。それは見てて分かる。
 「ただ、」
 ただ、何だろう。私は口ごもった。「あんず」の大きなガラス窓、そこから見る風景。祐一
の屈託のない笑顔が心をかすめる。ただ、それを見ているだけで幸福だった。ただ、その
中にいるだけで満たされた。あの大切な、いとおしい時間を、もう一度辿れるものなら辿っ
てみたいと思う。それだけだ。
 「全ては、ゆきちゃんの気持ち次第だから」
 私の思いをすくいとるように森川さんは言った。
 「過去進行形も、いいんじゃないかな」
 特に不都合がなければね、と彼女は笑った。
 「でも、ちゃんとここに帰ってくるんだぞ」
 やっぱり、彼女は神様なのだ。安くておいしい豆腐料理の店があるから、今年の忘年
会はあそこにしようとか、松ぼっくりのクリスマス・ツリーは私も作ってみたいとか、森川
さんのよもやま話は、いつも着実な幸福に満ちている。
 そうして私はこの人に、心から感謝をする。



  


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