つれづれ雑記


    


三人のH先生(2001/2/7)

  大学4年在学中から、友人の紹介で(というか半分だまされたかたちで)学習塾の講師をしてい
 た。そこは小学生から高校生まで、幅広く扱われていた予備校だった。私はそこで、主に小・中学生
 の国語のコマをもっていた。その他2〜3コマ、高校生の国語をみていたりもした。
  この予備校で知り合った講師の人たちは、実に謎に満ちていた。高校生の化学を教えながら、昼
 間はダンスを教えているという男性講師(しかもそっちが本業らしい・・・)、教員採用試験に挑みな
 がら、社会科教育に深い思想を持っていた同い年の主婦講師(こういうパターンは割と多い。彼女と
 は奇遇な縁も手伝って親しい仲となり、未だにそれは続いている)、年齢不詳の無口なおじさん講
 師(子どもとは親しげにやりとりしていた)、かあちゃんに弱いが、講師一筋で家族を支えている気合
 の入った理科講師、長い髪をかきあげながら、離婚した話や今の彼の話、それから娘さんの話など
 を親しげに語ってくれる、昼間は栄養士の仕事をしているという、色っぽいおばさん講師、かたっぱ
 しから挙げていくときりがないくらい、いろんな人生と出会った。
  非常勤講師が謎だらけなら、専任講師はもっともっと謎に満ち満ちていた。これについては語ると
 長くなるので、ここではふれない。
  とにかく、そんな中で、同じ「H」という名前の先生が、三人いた。
  そして、三人とも、同じ英語の先生だったことが印象的だ。
  それぞれの人柄を、懐かしく思い出す。私に大きな影響をくれた先生もいる。
  その人たちについて、少し書いてみたい。


  最初に出会ったT・H先生は、私が入った半年後の春、専任講師として現われた。背が高く、無口
 で、おとなしい人だった。自分のことなどほとんど語らない人だったので、私のような非常勤はもちろ
 ん、ずっと一緒に仕事をしていた事務のKさんさえ、「H先生は、よく分からないんですよ」と苦笑いし
 ていた。とにかく、仕事上の話だけを、穏やかにやりとりしていた。先ほどちらっと書いたけれど、こ
 の塾の専任はクセのある人ばかりだったので、そのうわさ話などがよくまわったが、そういう話も笑
 ってかわして、のってこない人だったらしい。
  そんなある日、大学の同級生が、「Hくん知ってる?」と唐突にきいてきたので、驚いた。「知って
 る」と言うと、「そやろー。向こうも知ってるって言ってたわ。彼、高校の同級生やねん。ええ子やろ」
  どうやら私の行っている塾の名前と、彼の勤め先が同じだと、何かの拍子に知ったらしい。彼女
 も驚いたようだが、私も、思いがけない共通に知人があったことに驚いた。そして、塾で見る以外の
 彼の顔がちらっと見えたような気がした。
  しかし、H先生のれいの雰囲気のせいで、なんとなく彼女の話を切り出せないまま、数年が過ぎて
 いった。そして彼は、私より先に辞めていったのである。
  塾の中では、それ以外の話をしてはいけないような雰囲気を漂わせていたH先生。今はどうして
 いるだろう。


  高校2年の国語を、自宅から片道2時間かかる支部校で担当させられ、いやいや通った1年があ
 った。週1回、1コマのためだけにである。行きの電車の中で、授業の準備ができた。帰りは長い
 道のりを、さまざまな乗り継ぎの実験をしながら帰った。下手に乗り遅れると、終バスに間に合わな
 い。生徒の質問もそこそこに、電車に飛び乗ったことを思い出す。
  その支部校に、J・H先生がいた。美人で、てきぱきしていて、明るい人だった。何がきっかけだっ
 たか(絵の話だったように思う)、ふと会話したことですっかり盛り上がり、H先生のおうちにおじゃま
 するようになった。結婚するまで、ツアーコンダクターをやっていたという彼女は、さまざまな話をお
 もしろおかしく?きかせてくれた。二人でよく遊びにもいった。京都に行ったり、絵を観にいったり、
 花をみにでかけたり。同じ大学の通信教育で学んでいたこともあって、いろんなことを相談したり、
 話したりした。当時油絵を習っていた先生と絵を描いたり、アレンジに没頭していた私と、自家製の
 藤づるでクリスマス・リースを作ったり。
  共通で教えていた生徒たちと、彼らの卒業する春に、遊びにいったこともあった。森林センターに
 バーベキューをしにいったのだけれど、バスが1時間に1本しかなくて、人のいないアスレチックで
 帰りに時間つぶしをしたのを覚えている。
  2年くらい、そうしたつきあいが続いただろうか。そのうち彼女に赤ちゃんができて、以前のように
 身軽に動けなくなってしまい、電話や手紙のやりとりへと落ちついた。そうこうしているうちに私が
 結婚することになり、彼女は二人目の赤ちゃんを懐妊し、その秋に一緒にコンサートに行ったのを
 最後に、それ以来、会っていない。
  H先生は二人目を出産後、実家のある神戸に引っ越し、私は結婚して名古屋に移り住んだ。たま
 に電話などで近況をきくと、お子さん二人も大きくなり、彼女もまた精力的に趣味の世界を追求して
 いるようだ。
  彼女とともに過ごした時間。彼女から学んだことは多い。
  「明るく、素直で、元気」。シンプルな三元素をモットーに、常に前向き、そして精力的に生きるH
 先生。興味のあることにはとことん積極的に関わろうとするその姿勢。小鳥のような目をくるくるさ
 せ、身振り手振りで一生懸命にしゃべる彼女が今も脳裏に浮かぶ。長い時間がたち、現実には
 こうして離れてしまっていても、あの日のH先生に励まされることは、今もって多いのである。


  私が拠点としていた支部校は、自宅から小一時間の、うらぶれた商店街の中の古いビルにあっ
 た。薄暗い急な階段を、かんかんかんと登っていく。3階に事務所と、講師控え室という名のうなぎ
 の寝床があった。そしていつも、1階のパンやの、パンを焼く匂いが空調を伝って上がってきてい
 た。今はもうない支部校であるが、妙に明るい蛍光灯の光と対照的な、それらの情景をまざまざと
 思い出す。
  ある日、事務のKさんと話をしていた折に、講師名簿の中の、ある名前に目がとまった。「M・H」
 とある。そして、続く住所、「F市」。私の中で、記憶がざわざわした。
  「この先生、いつ来はるの?」とKさんにきくと、私とすれ違う日があったので、その日に確認しよう
 と思った。二点、気になったのである。「M」という名前が男性にしては変わった名であったこと、そ
 して、「F市」が、曖昧な記憶の中の「M・H」氏と同じ住所のように思ったこと。
  奇しくもM・H先生は、私の高校2年の時の同級生であった。その頃はまったく、会話らしい会話も
 したことがなかったのだけれど、クラス名簿で見ていた彼の名前が印象的だったこと、ほとんどの
 生徒の住所である、学校近辺の市町村から少し離れたF市に住んでいたこと、が記憶に残っていた
 理由だった。しかし、彼の様子はその頃の印象とはまったく変わっていたので、最初は声をかける
 のがためらわれた。高校の時のような、メガネもかけていないし、やせてもいない。別人だったらど
 うしよう、と思いながら、おずおずと話しかけたのを覚えている。
  幸い、彼の方でも曖昧ながら私のことを記憶してくれていたので、会話成立、懐かしい高校時代
 の話に花が咲いた。それ以後も、塾の話を含め、いろいろな話をする機会があり、私の知らない裏
 話をたくさん教えてくれた。高校の先生の話、塾の専任の先生の話、などなど。そのうち、結婚して
 いた彼は、奥さんを紹介してくれるということで、家にも招いてくれた。奥さんのM先生は、近代文学
 がご専門なので、同じ専門の私と話が合うのではと、誘ってくれたのである。
  この時だったか、H先生が、M先生に惹かれたのはピュアなところだと言った。私から見れば、そ
 の言葉は、M先生はもちろん、H先生にもあてはまる言葉だった。
  あれから数年がたち、今では、(H先生に申し訳ないが)M先生と親しいやりとりをさせてもらって
 いる。お茶が好きだという共通点もあって、メールではもっぱらお茶と読書と分析の話をしている。
 彼女もまた、例にもれず前向き、研究熱心な人である。こうしてみると、私はやはり、前向きに生き
 ようとする人を好きだし、尊敬しているのだろうと思う。純粋に何かを受けとめ、真剣に対峙しようと
 する姿は、H先生もM先生も同じ。このピュアなご夫婦と、またたくさん話がしたいと思う今日この
 頃である。




我が青春の・・・(2001/2/3)

  高校時代、フォークソング部に所属していた。(プロフィールをじっくりお読みの方は、ご存知でしょ
 うが・・・)
  ギターに憧れ、ギターを弾きたくて、高校に合格するや否や、YAMAHAのギターを購入した。
  そうして、迷いもなく、フォーク部に飛びこんだのである。
  この雑記の枠では語り尽くせない、濃ゆい濃ゆい、濃厚な3年間が私の前にあった。
  ギターを弾く。歌う。アレンジする。仲間。先輩。後輩。顧問の先生。コンサートの企画。クラブの運
 営。恋愛。・・・とまあ、ありとあらゆる要素を抱え、私の、私たちの、クラブ活動は高校3年間の青春
 そのものであった。
  「キーボードを入れるかどうか?!アコースティックギターでいくのがフォーク部ではないのか?!」
 など、今考えればどうでもええやんと思うような内容を、数日にわたって、真剣に議論していたことも
 あったっけ。苦笑しながら思い出したりする。
  そして今も、そんな話を分かち合える、共に笑える仲間があることを、感謝してやまない。
  卒業して13年を経た今も、みんな相変わらずマイペースで、それぞれの人生を生きている。
  そのひとりひとりの人柄を、私は愛してやまない。
  おーい。また集まろう。久しぶりにギターを弾きましょう。




雪の庭(2001/1/20)

  今年になってはじめての雑記です。
  初積雪、10cmの日がありました。
  うれしくて、何度も外に出て、寒い中写真を撮ったり
 していました。
  庭では水仙、さざんかが例年よりもたくさん花をつけ、
 「寒い季節を選んで咲く花もあるんだなあ・・・」としみじ
 み感じたりしています。
  その一方で、寒い季節を越えるからこそ、春に咲く花
 も芽吹いています。
  庭では、ムスカリ、チューリップ、フリージア。散歩道
 の木々は、桜。
  早春の花は、すがすがしい香りがして、本当に心が
 すきっとします。
  アレンジをしていた頃、2〜3月の花をとても楽しみに
 していたのを思い出します。




(2000/12/20)

  高3の時、担任だったT先生が何かの折に、女性の手は年齢を語る、というような話をした。
  「顔は化粧でごまかせるが、手にはその人の年齢があらわれる。手を見れば、その人の生き方が
 分かる」と、細かい言葉は思い出せないが、そういったニュアンスのことを言った。そうして、「だから、
 女の子は手を大事にしろ」としめくくったように思う。
  その話を私は時々思い出す。大事にしなければ、と時々自分の手を見る。
  ところが先日、前に書いた留学中の友人と会った時のことである。
  帰り際、駅までの道を歩きながら、彼女は「手が荒れたね」と言った。
  「あなたは学生の頃、ほんとにきれいな手をしていました。そして、手には年齢があらわれるから、
 大事にしなければならない、と言っていたでしょ。でもやはり、主婦になって家事をしていたら、そうい
 うふうになってしまうんだね。」
  彼女は会話の中で、当時のいろんなことを、本当によく覚えていてびっくりしたが、この、手の話も
 また、そうだった。もちろん、彼女は私を非難したわけではなく、しみじみとそう言っただけなのだが、
 私もその言葉にあらためて、自分の昔の手を思い出し、心の中で見比べてみた。
  確かに、私は学生の頃、「あんた、白い、きれいな手してるねー。苦労してない手やねー。」と、
 よく周囲の人から感心された。自分自身は、子どもの頃から、大人の女の人のきれいな手に憧れ、
 早くあんな手になりたい、と思っていたのだが、その頃はまだ、自分の手が子どもじみて見えて
 いた。いつになったら、あんな細くてきれいな手になるのかなーと思いながら、大人になった。
  それが今では、もうそのきれいな手を飛び越してしまって、荒れて骨ばった手になってしまっている。
  「そうだねー、荒れたねー。毎晩ハンドクリームをたくさんつけて、手袋して寝てるんだけどねー」
  そういうと、彼女は笑って、「もっと、もっと。寝る前だけじゃだめ。もっとクリームをつけて、手入れ
 してください」と冗談めかして言った。
  自分の手。荒れるのは必至の毎日だけれど、その中でもっともっと、できるかぎり大切にしなけれ
 ば、と思った。自分で自分を痛めつけているような、手の使い方もやめよう、と思った。

  これを書きながら、結婚する直前に会ったT先生の言葉を思い出す。
  「ああ、あの話は、そういう意味じゃない。年齢が出る女性の手を、悪く言ったんじゃない。
 年齢が刻まれた手は、美しいということだ。その手にあらわれる人生が、きれいだということだ」
  高校時代、私はどうも、少し勘違いしてこの話を聞いていたようだけれど、この勘違いには、その
 時の私のものの見方が反映されているように思う。そして、今更ながら、T先生の言葉が重く感じら
 れるのだ。だからこそ、自分の手をもっともっと、大切にしなければ、と。




しなやかな人(2000/12/20)

  先日、懐かしい友人が遊びにきてくれた。
  学生時代、台湾からの留学生であった彼女と、同じゼミで2年間、勉強したのだった。
  生まれ育った国は違うけれど、彼女とはどこか感性が似ているところがあって、当時から共感する
 ことも多く、学校を出てからも7年間、ずっと連絡をとりあっていた。
  彼女は今、私たちの学んだ学校に2度目の留学中であり、来春には祖国の学校に進学するため、
 帰国する。・・・あと数ヶ月の留学生生活の中で、一度は会いたいと、時間を見つけて大阪から名古
 屋まではるばる来てくれたのだった。
  私の結婚式以来、2年半ぶりの再会だったけれど、お互い会って話をすれば、ありきたりな話だが
 学生時代に戻ったような気分になる。深夜まで、学校のホームページをのぞきながら、いろんな話に
 花を咲かせ、まるで自分も自分の周りも、あの頃にタイムスリップしたような錯覚に陥った。懐かしい
 人々の顔や、授業の雰囲気や、エピソードが、昨日起こったことのように感じられるくらい、近くにあっ
 た。・・・そうして、一生懸命だったあの頃の自分が、今の自分と重なり、ひたすら前向きに走りつづけ
 た自分の姿を思い出し、昂揚した。今の私は、周囲の評価に翻弄され、なんと萎縮して生きているこ
 とか、と思った。それがいいとか悪いとかいうわけではないけれど、あの頃のような、のびのびとした
 気持ちを久しぶりに味わって、すきっとしたのだ。
  彼女は、来年は進学もし、結婚もする。いずれは、現在休職している教師の仕事にも復帰する。
  学生の頃からそうだったけれど、何事をも悲観せず、前向きに、自分のやりたいことをたくさん持っ
 て、マイペースで努力し続けている。現状に焦りすぎることなく、また甘んじることなく。・・・そんな彼女
 を目の前にして、私もまた、自分のペースを信じて頑張らねばという思いがした。




ホームページつれづれ(2000/12/14)

  ホームページを作って、自分の作品を読みたいと言ってくれる友人たちに読んでもらえたら・・・と、
 漠然と思いはじめたのは、パソコンの購入が具体化した頃。1年半ほど前のことです。その頃は、
 友人知人に「それ読みたい」と言ってもらっても、作品そのものをコピーして送るか、出版済みの
 詩集を購入してもらうしか方法がありませんでした。
  言われる度に、小説などは数十枚のコピーをして郵送していたけれど、なんとかもっと簡単に読ん
 でもらいたいし、要望も感想も、もっと簡単にやりとりができたらなあとぼんやり考えていました。
  その頃の私には、パソコンやメールやホームページという言葉自体、遠い世界のもの。ホームペ
 ージを作れば、どうも自分のやりたいことができる「らしい」ということは分かっていたのだけれど、
 実際、それを成し遂げるまでにどれほどの知識や時間や労力が必要かと考えただけで、はなから
 ムリだとあきらめるしかなかったのでした。

  そうして、パソコン購入から1年半。
  メールのやりとりが使用法のほとんどだった1年を経て、だんだん、「書く」ことから遠ざかる日常
 生活に危機感を覚えはじめました。状況に流される性質ゆえ、時間がないことを理由に何もしなけ
 れば、このままずっとこんなふうに流されていくことになるのではないだろうか・・・。
  そこで、ホームページ作成計画が浮上してきたのでした。折も折、仕事上パソコンを独習してきた
 うちのダンナさんが、自分のホームページを作りはじめました。それを手伝いつつ見習い助手となり、
 だいたいの知識や方法を得、いよいよとりかかったのです。
  ところが、いよいよアップロードしようという段になって、以前からアドレス取得済みのジオシティー
 ズでは、広告が入るのが、承知していた以上に気になりました。しかも、アップロードの方法が複数
 あって、分かりにくかったのです。新たにURLをとりなおさねば・・・と一時はがっかりしたけれど、
 結局、ダンナさんが取得して使っているアドレスの中で、できることになりました。
  そんなこんなで、毎日ちょっとずつ進めていったのでしたが、短期集中型の私としては、そういうの
 がもどかしくていらいらもしたし、途中で他のことに興味が移ったり?、日常に埋没していたり。うまく
 進まないホームページのことを忘れていたこともありました。
  そんな時、ふとメールをやりとりするようになった友達がそのことを知り、早く見たいとせかしてくれ
 たおかげで、こうしてちょっとずつ、形のあるものになっていったのです。
  嗚呼、ありがたきは友人かな。

  けれどまだまだサイトは未完成だし、しばらく手紙やメール以外、書くことから遠ざかっていたせい
 で、頭の中の筆もかなりさびついています。そういうわけで、いつ試作段階を抜けられるのか分かり
 ませんが、まあ、これまでどおり、ぼちぼちと地道に頑張っていくしかないです。
  長ーい目で?見てやってくださいね。
  またご意見ご感想を、お気軽にきかせてくださいな。
  今後ともよろしくお願いします。




あせりは禁物(2000/12/5)

  今日は懲りずに?お好み焼きを焼いた。
  せっかくだしをとったのに、急いで作ろうとして、ほとんど熱湯状態のまま、小麦粉に投じてしまった。
  生地が半透明になり、粘りが出ている。これではいかんやろう・・・・・
  結局全部捨てて、水で小麦粉をとくというシンプルな方法にした。
  時間もかかって、ほんとにもったいなかった。
  いらちの私はこういうことがよくあります。あせりは禁物です。




クレープの呪縛(2000/12/4)

  クレープを焼いた。
  突然、バナナとホイップクリームを包んだクレープが食べたくなったのだ。
  古い本をひっぱりだして、クレープのレシピを探した。
  長く作っていないから、ホットケーキのような感じだろうと想像して、材料を混ぜ、焼いてみた。
  焼くなり、そのにおいに、ものすごい郷愁を感じた。
  食べてみてまた、その味、食感に「これこれ・・・」と思った。
  そうしてそれは、おいしくなかった。何故だろう・・・
  レシピや私の腕前といった現実問題以外で、思い当たることが、ひとつある。

  私がお菓子をはじめて作ったのは、小学校四年生の時。
  主婦の友か何かの雑誌についていた、夏休み中の子どもが作る、お菓子・・・の冊子を見て作った
 のだった。
  その中でも、簡単そうでおいしそうだった「クレープ」。
  これが、私がうまれてはじめて作ったお菓子だった。
  当時、読んだ少女マンガの中で、主人公がフランスに留学して、クレープを食べる・・・という場面が
 あって、「クレープ」というものを、特別すてきなお菓子だと思っていたせいもある。
  とにかく嬉しくて、いそいそと作った。
  けれど、悲しいかな、四年生の私が本の写真どおりになんてできるはずもなく、結果、油できときと
 の、分厚い、なんだかあやしいモノができあがったのだった。・・・それにいちごジャムをかけて・・・母
 にふるまったのだった。自分でもマズイと思ったことははっきり覚えている。黙って食べてくれた母は
 偉かった・・・。
  その後、クレープは何度か作る機会があったように思うが、おいしいのが出来たという記憶はない。
  そのうち、クレープは出店などでよくみかけるようになった。学生の頃は、たまに食べたりもした。
 外で食べるクレープは、とってもおいしい。
  あゝ、クレープ・・・・・。
  自分では絶対においしく作れないお菓子、という呪縛は今も生きているようだ。

  考えてみれば、私のお菓子作りの歴史は、そういうものだらけのような気がする。
  いわゆる「トースター」というものしか我が家になかった小学校時代、オーブン(当時はテンピと本に
 書かれていた)に憧れながら、せめて出はじめていた「オーブントースター」をと望みつつ、あらゆる
 お菓子をガステーブルで焼いた。あの、魚を焼くグリルでクッキーやケーキやタルトやパンを焼いた
 のである。忘れられない思い出たち・・・・・。高校時代、待ってましたのオーブントースター登場で、
 選手交代するまでの永きにわたり、グリルは活躍した。魚のにおいのするクッキーは、やはり今でも
 忘れられない。
  そういうわけで、私は自分の作ったお菓子を自分で食べることができない。
  今はもちろん、大学生の頃からは、ちゃんとした「オーブンレンジ」を使っているのに。
  何を作っても、つねに「マズイ」よう気するのだ。
  こんなことを話したら、今までそれらを食べさせられてきた、家族や友人に怒られそうだが・・・・・。
  これもまた、クレープと同じく、呪縛なのである。多分。

  バカバカしい話を長々と書いてしまったけれど、気まぐれで作ったクレープから、そういう懐かしい
 記憶が戻ってきたのだった。あれから20年を経て、たくさんの製菓器具を持ちながら結局、私がおい
 しく作れるお菓子は森永のホットケーキミックスで作るホットケーキくらいなのだ。