ガラス窓のある風景



 思い出は降りしきる雨のようだ。
 十一月の雨は音もなく降りつづき、時折窓の下を通り過ぎる車だけが、水たまりの浅い
音で雨の冷たさを伝える。ひと雨ごとに冬へと歩みよるこの季節、過去はさらさらと私の
目の前に広げられ、重なり合いながら、ゆっくりと流れていく。ガラス窓ごしに、それらは
雨に溶け込んでいく。雨の休日、私は飽くことなく終日それをながめている。

 さっきから電話の呼び出し音が規則正しく鳴りつづけているのを、浅い眠りの中で聞い
ていた。どのくらい鳴っていたのか分からない。まだぼんやりしたまま、ソファからゆっくり
手をのばして受話器をとる。ぎゅっと耳におしつけると、思いがけなく懐かしい声がとびこ
んできた。
 「もしもし。由希子?」
 眠気が吹き飛ぶ。あたたかな、懐かしい声。静かに、注意深くたずねるその口調。あま
りに自然で、私ははい、といつものように答えたのだった。
 彼とは―――祐一とはもう3年も会っていない。正確には三年と八ヶ月。あの頃、私たち
はまだ学生で、学生にありがちな出会いをし、学生にありがちな別れをした。ありふれた
恋の形ではあったけれど、もう二度とあり得ない、たったひとつの恋。いとおしい年月のか
けらが、ジグソーパズルのピースのように、からからと心の中で音を立てる。
 「あした、二時に、いつものところ。会える?」
 私は、過去の流れの向こう側にすべりおちてしまいそうだった今日一日を思った。今、
過去は過去であり、現在は現在としてきちんと機能している。電話で祐一とつながったこ
とでそれを確信できたのだった。
 「うん」
 なぜか会わなければならない、という気がした。三年八ヶ月という時間の隔たりを感じさ
せない彼の声のせいかもしれない。
 「先週貸した楽譜、あしたもってきてくれる?バイト先で必要になったから」
 一瞬間をおいて、小さくうん、と答えてしまった。じゃああした、と祐一は笑って、電話は
切れた。当然のことながら、私は一人で途方に暮れた。
 「先週貸した楽譜」
 彼の言葉を復唱する。
 「バイト先」

 祐一はピアノを弾いていた。大学では経済学というおよそ音楽とはかけはなれた分野を
専攻していたというのに、アルバイトでピアノを弾き続けていた。小学校のとき、クラスで
好きだった子がピアノを習っていたので、親にせがんで自分も同じ教室に通いだしたのだ
という。私はそれを聞いたとき、不純な動機の王道ね、と笑った。やがてその女の子は私
立中学受験のためにピアノ教室をやめたのだが、祐一は家でピアノを買ってもらったため
に、やめられなくなったのだという。
 それで、今もやめられないままなの?ときくと、そうだ、と彼は笑った。ピアノ教室は中学
2年でやめてしまったけれど、ピアノを弾くことは、どうしてもやめられないんだ。
 それ以上、祐一がピアノを弾きつづける理由はきいたことはない。きかなくても、彼の弾
くピアノを聴けば解る気がした。祐一の弾くピアノは、祐一というひとそのものだった。静か
で、あたたかく、力強く、心のいちばんやわらかいところにダイレクトにじんわり染みてくる。
それもあくまで嫌みではなく、じんわりと。その時々の祐一が、音に正直に表れているの
も私は好きだった。それは彼の素直さの証明だと思っていた。だから、祐一のピアノをきく
ことは、彼の百の言葉をきくよりも私には有効だった。祐一が特に口下手であった訳では
ないが、私にとって、彼のピアノは言葉以上の効力をもっていたのだ。それは彼の存在を
受容する、というだけではなく、私自身にとっても大きな力だった。どんなことがあっても、
祐一のピアノを聴けば、とりあえずそこに立っていられると思った。それは、今も変わらず
そう思っている。
 ところが、彼はピアノを弾くことをやめたのだ。私たちが大学を卒業したのと、祐一がピア
ノを弾くことをやめたのと、私たちが別れたのは、みんな同じ三月の出来事だった。そうして
四月から、祐一はお決まりのサラリーマンとなった。あのまま辞めずに三年八ヶ月のキャリ
アを積んでいるとすれば、今もあの大手の商社に勤めているはずだ。私は私で、休館日が
平日であることを恨みながら喜びながら、とりあえず真面目に図書館勤務をこなしている。
 別れた時、もう二度と会うことはないと思っていた。口には出さなかったけれど、お互いに
ひどく傷つきながら、それでもまだお互いの思いがわかってしまう、そんなせつなさを抱えた
まま私たちは別々の春を迎えた。
 つまり、この突然の再会の約束は、間違いなく、三年と、八ヶ月ぶりの、はずなのだった。

 センシュウ、カシタ、ガクフ。こともなげに祐一はそう告げた。確かに、祐一に返しそびれた
ままのものはいくつかある。それは、ジュリー・ロンドンやアシュケナージのカセットテープだ
ったり、つまらないまんが本だったりするのだが、その中にショパンのワルツ集の楽譜があ
ったことをぼんやり記憶していた。もっていくような返事をしてしまった以上、手ぶらでいくのも
憚られる。こういうところで私は非常に律儀だ。あてがあるものはとことん追及しておかなけ
ば気が済まない。仕方がないので、祐一と別れて以来封印していた「禁断のヨックモックの
かんかん」を開けてみることにした。この中で、祐一と過ごした三年の間に彼からもらった数
少ない手紙と、数枚の写真、そして問題の品々の隠し場所を記した紙きれとが眠っている。
まわりくどいやり方だったが、あの頃の私には、こうするより他に「禁断」を「禁断」として守っ
ていくだけの方法がなかったのだ。
 果たして、問題の品々の中に、ショパンの楽譜はあった。ビニールのカバーは破れてとうに
なくなっており、角の折れた古びた表紙が、静かに私を見つめた。ぱらぱらとめくれば、十番
のページに折り印がついている。少しずつ記憶が戻ってくる。
 祐一の弾くこの十番のワルツにひかれ、好奇心で彼に楽譜を借りた。けれど、小学生の頃
「猫ふんじゃった」をいたずら弾きしていた程度の私に弾けるはずはなく、結局祐一の弾くの
を聴いているのがいちばんいい、という結論に達した。実際、彼の弾くそのワルツは、アシュ
ケナージもブーニンもかなわないと私は思っていた。いつか二人で観た映画の、ラスト・シー
ン近くで静かにピアニストが弾いていた。あの感じに最も似ていると言えなくもないが、それ
にしても、祐一の弾く「十番のワルツ」は、痛かった。痛いくらいに、という表現ではもどか
しい、痛みとせつなさがあった。たとえば、深い深い青の中に、永遠に投げ出される。ゆらゆ
らとした音の海を漂い、二度と帰れない。そういった絶望の中で、どこかそれに安心しきって
いる、そんなピアノを祐一は弾いた。時折私は無性にそれを聴きたくなり、彼のアルバイト先
の店に、ラスト・オーダーぎりぎりですべりこんだものだった。もう四年以上前のことだ。
 先週、というのはさかさまにしても分からないが、借りたままの楽譜はとりあえずこうして
発見された。これなのかどうか、明日祐一に尋ねてみればいい。アルバイト先で必要というの
も、もしかしたら、仕事に余裕が出てきて、会社がひけてからまたアルバイトでピアノを弾い
ているのかもしれない。いわゆる商社マンに、それも四年目の若手に、そんな余裕があると
はどうしても思えないのだが、とにかくそう仮定することで、ひとまず私は安らかに眠りにつけ
る。
 ところがもうひとつ、厄介で不可解な謎にぶちあたってしまった。
 「ニ時?」
 明日は火曜日だ。私の勤めている市立図書館は月曜日が休館日なので、私は基本的に
火曜日に休みをもらっている。平日の連休である。午後二時にでかけることなど造作もない。
けれど、祐一は?
 私はしかし、そこから先の思考を放棄した。今考えたことは、全部冷凍保存にしよう。そし
て、ただ、祐一に会うということだけを信じよう。
 祐一が私に向かって、手をのばしてくれた。今の私には、それだけで充分だった。

 夕べ遅くまで降り続いた雨は、向かいのマンションの壁にかすかなしみを残して、すっかり
やんでいた。十一月の空は珍しく明るく、落ちた柿の葉に染みる光が、わずかに秋らしさをと
どめている。風が湿った冬の匂いをさせながらも、思ったより暖かかったのは、寒がりの私に
とって救いだった。薄手のアンサンブル・セーターにチェックのストールを羽織って、アパー
トの鍵をかちゃりとまわす。
 私鉄で十五分、六つの駅を通り過ぎたところに、私たちの学校がある。学生のためにだけ
あるような七つ目の小さな駅のすぐ下に、いつも祐一と待ち合わせをした喫茶店があった。
駅前には小さいながらも、本屋、文房具屋、ファストフード店やパン屋、などが林立していた
が、そして実際クラブ仲間はクラスメートとはよくそれらを利用したが、祐一と会う時は、いつも
この喫茶店で待ち合わせをした。ガラスの大きな窓からは、やってくるお互いの姿がよく見え
たし、それに何より静かだった。ある時は祐一が早かったり、ある時は私が早かったりした。
早く来た時祐一は、たいていなにがしかの本に目を落としていたが、ガラス窓まで数十メート
ル、の信号待ちでいつもぱったりと目が合った。あの頃は、そんな他愛もないことのひとつひ
とつが嬉しかった。
 しばらく訪れなかった駅前も、そっくりあの頃のままだ。駅前にインターネット・カフェが
できたという噂を、クラブの後輩から聞いていたのだが、見当たらない。場所が違うのかもし
れない。殊にその喫茶店は、時が止まっているかのように見えた。大きなガラス窓も、店の名
前――あんず、といった――も全てそのままだった。ほっと息をついて、ドアを押す。カウベ
ルつきのシンプルな造りも相変わらずだ。祐一の姿は、まだ見えない。
 私は件のガラス窓に面した席を陣取って、アーモンドオーレを注文した。このメニューはど
こにでもあるものではない。私はこれが好きで、ここに入るといつも同じ注文をしてしまう。
祐一はというと、その日の気分任せに何でも注文した。アメリカンだったりミルクティだった
りホットミルクだったり。
 アーモンドオーレがくるまでの間、私はいつもそうしていたように、ぼんやりとガラス窓の
外をながめていた。駅前はスクランブル交差点になっていて、学生や主婦と思しき人たちが
わたっていく。この信号をわたり、少し線路伝いに歩いて、小さな川を越すと、大学に辿りつく。
私は頭の中でその道をゆっくり歩いてみる。そして、そこから遠く隔たってしまった今の自分
の生活を思う。祐一にどんな顔をして会おう。最初になんて言おう。アーモンドオーレの大き
なカップが運ばれてきて、ふと四年前に紛れこんでしまったような錯覚にとらわれる。角砂糖
の乗っかっているスプンをもてあそびながら視線をガラス窓の外に戻すと、――祐一が、信号
を待っていた。あと数十メートル、の信号待ち。
 そうして、私たちは小さく微笑んだ。

 「急で悪かった」
 祐一は向かいの席に腰を下ろすなり言った。学生アルバイトらしき店員に促されて、アメ
リカンコーヒーを注文している。午後二時すぎの店内は、気の抜けたサイダーみたいにゆら
ゆらして見える。ランチタイムが終わり、学生の授業も真っ最中もこの時間帯は、いつだっ
て店全体が眠そうに呼吸しているのだ。靴底についた細かい砂が、床でこすれてざりざりす
る。カウンター席のおじさんがふかしているパイプの煙は、キャラメルの甘い香りがする。
 「ううん。べつに予定もなかったし」
 「明日、水曜日だろ。ホテルでやる曲、向こうから急に指定が入ってさ。由希子に貸した
 やつなんだ。悪いな、まだ一週間も経ってないのに」
 水曜日の午後はホテルの喫茶ルーム、その他の日の夜は祐一の伯父の店。祐一のアル
バイトは、そう決まっていた。だが、それは学生の頃の話だ。私は何となく切り返せないまま、
黙って手元の紙袋から楽譜を出し、祐一の前にさしだした。
 「これ、で、良かった、っけ」
 「うん。悪かった、急で」
 祐一はコーヒーを一口飲んでから、楽譜をぱらぱらとめくった。
 「うーん。ワルツばっかりたてつづけに十七曲なんて、一体誰がリクエストしたんだか」
 「十番のも弾く?」
 「もちろん。聴きにくる?」
 「行きたいところなんだけど」
 明日は仕事があるから。大きく息を吸いこんだところで、祐一が、あ、そうか、と言った。
 「由希子も昼から図書館だったな。もう慣れたの?」
 慣れたも慣れないも、と私は思った。学生時代のアルバイトが一年六ヶ月、就職して三年
と八ヶ月。五年二ヶ月も図書館司書として働いているのだ。
 「――森川さんがよくしてくれるからね」
 森川さんは、二つ年上の文学部の先輩だ。卒業して、大学から二駅離れた市立図書館の
司書になったのだが、そこの図書館でアルバイト募集があった時、やはり司書志望だった私
に声をかけてくれたのだった。私が学校を卒業した時も、そのまま残れるように尽力してくれ
て、そのおかげで私は、現在に至る、という訳だ。
 「森川先輩は、ほんとに面倒見のいい人だからなあ」
 祐一は感心したように言って、コーヒーを一気に飲みほした。
 私は何となくうしろめたいような気になって、そこで初めてどきどきしたのだった。祐一
に三年八ヶ月ぶりに会ったということ。そして、久しぶりに会ったはずの彼は、どうやら―
―彼の言葉、素振り、服装、等々を総合して考えると――学生であるということ。それらの
ことがマーブル状になって混ざらないまま、くるくると宙を舞っている。
 「いい天気だ」
 祐一は大きくのびをして、ガラス窓の外をながめる。
 「こうしていい天気が続くと、気持ちも音も明るくなる。いいワルツが弾けそうだなあ。
 由希子にも聴かせたいなあ」
 ――祐ちゃん、昨日はひどく雨が降りました。十番のワルツみたいに、寂しかった。もう
ずっと長いこと、一人きりで寂しかった。
 ごめんね、というと祐一は私の方を見て目をまるくした。ゆき、泣いてるの?
 なぜだか分からないまま、私はその言葉しか知らない九官鳥みたいにくりかえした。
 ゴメンネユウイチ。私たちはもう、こんなところまできてしまいました。

 「そりゃあ、妙な話だわね」
 森川さんはお弁当箱のふたを外しながら言った。
 「私もふだん大学の方までは行かないから、何とも言えないんだけど、場所はともかくと
 して白木祐一がねえ。学生のわけないでしょ、あなたたち一緒に卒業したんだし」
 給湯室兼休憩室で、遅いお昼休みをとっているのは、私たち二人だけだった。私は急須の
お番茶を二つの湯呑みに交互に注ぎながら、昨日の祐一の屈託のない笑顔を思い出していた。
 また電話する、と彼は言った。いつでも店に来いよ、とも。
 「白木くんの連絡先、分からないの?」
 「卒業したら、会社の近くに引越すって言ってました。でもそこから先は、全然知らない
 んです。私も家を出たし、向こうも知らないはずなんですよね」
 そういえば、彼はどうやって私のアパートの電話番号を知ったんだろう。
 お弁当用の短いお箸でふくふくした卵焼きをつまみながら、森川さんは興味津々といった
顔をした。
 「ミステリアスだなあ。突然の電話に、三年八ヶ月ぶりの再会。会ってみれば彼は学生時
 代のままで、四年以上前に借りた楽譜を、先週貸したとのたまう。ゆきちゃん、それは二
 つに一つだ。タイムスリップしたか、きつねにつままれたか、どっちかじゃない?」
 何とも言えなかった。私にも、それくらいしか思いつけなかった。あと、ドラえもんのタ
イムマシンとか、どこでもドアとか。私はおにぎりを崩しながら考えこんだ。
 「ただね、ゆきちゃん」
 湯呑みを引き寄せながら、森川さんは真顔になって私を見つめた。
 「うまく言えないんだけど、世の中にはこんなふうに、理屈では説明のつかないことが結
 構ごろごろしてるものだって、思わない?それはちっとも特別なことじゃなくて、ほんの
 少し何かがずれたり、ねじれたりしているだけ。そういうのを、いちいち理詰めにしなく
 てもいいのかなあ、なんて」
 そこから、ファンタジーの話にすりかわり、ずっと予約が入っているベストセラーは実は
つまらないとか、今月の新刊はどうだったとか、図書館員らしい話題へと移っていった。
 「森川さーん倉田さーんちょっとお願いしまーす」
 ドアの向こうから主任の声がする。
 「はーい」
 二人で元気に返事をして、湯呑みを片付ける。ほらその調子、と森川さんは笑った。元気
出して。
 私が森川さんを拝みたくなるのはこういう時だ。ピンチにさらされた時、この人は素知ら
ぬふりでひょいとすくいあげてくれる。そうするのが当たり前、の人なのだ。つまり、神さ
ま。私は森川さんが大好きだ。


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